2021年1月30日土曜日
障がい学生支援を受けて
2021年1月1日金曜日
2021年☆新年のご挨拶
皆様
新年、あけましておめでとうございます。
viwaの奈良里紗です。
2021年の元日、皆様、いかがおすごしでしょうか。
皆様が健康にこの新しい年を迎えられていることを心から願っております。
毎年恒例となりますが、一年に一回ぐらいは代表らしいお仕事をしなければと思いますので、viwaスタッフを代表しまして皆様に新年のご挨拶を申し上げたいと思います。
2021年への気持ちを語る前に、これまた毎年恒例の2020年を振り返りたいと思います。
2020年2月までは、例年通り、パパママ会と視覚技塾を愛知県立名古屋盲学校にて開催しておりました。
あの当時、まさか新年度が無事に迎えられない事態が起きるとは想像もしていませんでした。
3月上旬に私は視覚障がい関連の施設を訪問することを目的に渡英していました。
帰国すると、日本が新型コロナウィルスによって様変わりしていました。
いつもなら多くの旅行客でにぎわう空港も閑散とし、職員はみんな手袋にマスク。
これはただことじゃない!と肌で感じたことをよく覚えています。
そこから急転直下。
viwaの最大のいいところはフットワークの軽さ。
対面でのイベントはできなさそうということがわかるとすぐにzoomの有料ライセンスを購入。
4月にはオンラインスタイルでのパパママ会がスタートしました。
いまだかつて誰も経験したことのない緊急事態宣言が発出され、誰もが不要不急の外出を制限されました。そんな中でも容赦なく続くのは子育てです。きっと、学校もなくなり毎日毎日、家で過ごさなければならないというのは平時とはまた違った困り感があるのではないかと思い、保護者からのニーズも聞き取り、平日夜21時から毎週開催しました。
ときには、盲学校の先生、ときには眼科関連の医療従事者の方々、ときには歩行訓練士さんなど、皆さんがパパママたちのために時間を作ってくださり、自粛中の悩みに応じてくださったことは本当にありがたいことでした。
また、4月17日より新型コロナウィルスの影響による視覚障がい児・者のお困りごとアンケートも実施することになりました。こちらは現在も継続中です。お困りごとをできるだけ多く拾い上げて何かお役にたつ情報発信ができないかという取り組みです。お困りごとを集計し、Facebook上で公開をしたり、コロナお困りごと座談会をライブ配信したりしてきました。
そして、5月。
ピンチをチャンスに変えたい、私たちにできることは何かないかというスタッフの活発な議論から、とんとん拍子で企画が持ち上がり、アメリカ・シアトル在住の視覚障がいのある日本人である田中恵さんとのオンライン視覚技塾が開催されました。初めてのオンラインセミナーでしたがわずか数日で約70名近い参加がありました。これには運営のスタッフも驚きました。
そして、オンライン化が加速する中で、おきざりにされていく視覚障がい者像がうかびあがってきました。まだ、このころはどの団体もオンライン形式でのイベントを模索しはじめたという状況でした。その模索、四苦八苦して得られたノウハウを共有する場がほしいということから持ち上がったのがオンライン活動をテーマとした視覚技塾でした。こちらは定員の100名にあっという間に達してしまいました。このとき、裏方で事務を担っていたスタッフは相当大変でしたが、社会のために自分たちができることだからと使命感で走り切ってくれました。
6月。
2020年7月10日に向けた準備が始まりました。そう、viwa設立10周年記念です。何か盛大なセレモニーをやろうという方向へいかないのがviwa流。いつも通りのミーティングをFacebookでライブ配信しちゃいませんか?というアイディアが浮上、それに対して「いいね、面白そうだからやろう」と二つ返事で決まってしまうのが気持ちのよいところでもあります。
10年間を振り返るために過去の活動の写真を出し合ったり、こんな活動もしたねとトピックをあげたりと楽しい準備が進みます。
このころ、私たちの生活は徐々に平時モードに切り替わろうとしていました。7月10日は金曜日でした。日時よりもみんなが参加できることが大切という雰囲気が自然とでき、ライブ配信自体は7月11日。でも、viwa時間では7月10日という設定を作り出したのでした。10周年を迎えるにあたり、これまで支えてくださった方々からもお祝いのコメントを寄せていただき、改めて、人に支えられたからこそ、続けられた10年間だったと感じたのでした。
7月。
10周年記念のライブ配信は、終始和やかな雰囲気で
「いつものミーティング」をすることができました。
改めて、次から次へと新しいアイディアがふってくる私、それをやろうとして支え、ともに歩んでくれた仲間には心から感謝したいと思います。
10年前、10年後のこの日がこのような状況になっているとはだれも想像ができなかったと思います。それでも、10年間着実に歩みを進めてこられた、様々なライフステージの変化があったけど、やめずに続けられたのは、仲間がいたからこそだと感じています。
2020年は新たなスタッフがたくさん加わってくれた一年にもなりました。20代から70代まで幅広いスタッフが活動に加わってくれたことで活動に深みがでました。viwaにつながってくださった皆様、本当にありがとうございました。
話は戻しまして、9月から全6回のプログラムで視覚技塾&パパママ会を実施することが決まりました。
「やりたい!」という気持ちが先にたってしまい、細かいことは後回しな私に事務局メンバーを随分と振り回してしまいました。
ときには、認識に齟齬があり衝突してしまうこともありました。それでも、問題解決のために歩みをすすめてくれるスタッフ、さすがです。
9月は読書バリアフリー
10月は中途視覚障がい者の日常生活
11月は地域格差
12月は海外旅行
と4つの視覚技塾を開催することができました。
それぞれのスタッフが自分たちの中にある「やりたい!」や「興味があること」を形にしてくれました。これも私一人ではできなかった、思いつかなかったことばかりです。そして、今まで情報を届けることができなかった全国各地の視覚障害当事者、教育、医療、福祉の関係者の皆様に情報をお届けすることができました。毎回のアンケートで
「そうそう、そういうことが伝えたかった!」
というこちらの想いが届いた瞬間は本当に嬉しくなります。
パパママ会では、ずっとコラボしたいけど距離的な問題でできなかったチャレンジドヨガの高平先生との企画が実現しました。
親子で楽しく体を動かしている様子はみていてポカポカしました。また、12月からは3回プログラムでどなたでも参加可能な健康講座まで実施していただけることになりました。コロナ禍で気持ちが落ち込んでしまったり、体を動かす機会がないからこそ、オンラインでもつながり、体を動かし、思いっきり笑う時間はとても大切だと改めて感じました。
今年はヨガ以外にも、オンラインで料理教室も実施しました。
料理教室、オンラインでなんか無理じゃない?というところから、自宅だからこそ、自宅にあるものでいつものキッチンでお料理ができるっていい!という新たな発見もありました。
何より子どもたちが積極的に取り組んでいて、お料理教室後、何度もおうちで料理してくれるようになったんだとか。体験する機会を作ることの大切さを改めて感じました。
10月、11月は(株)ファンケル様とのコラボ企画でオンラインでのスキンケアセミナーを実施しました。
こちらもオンラインでどういうかんじになるのだろうと思っていたのですが、画面越しでも十分にできることを実感。男女ともに、終了後には本当にお肌がつやつやで、「きれいになる」って大切!と感じました。
私も一緒にセミナーを受けて、それからは優しく肌をいたわる時間を意識的に作りました。すると、本当に触ってわかるぐらいの変化がありました。やっぱり、ちゃんと教えてもらう機会って大切!と私自身が実感しました。
すでに、1月の(株)ファンケル様とのコラボ企画の参加募集が始まっています。2021年も様々なテーマに取り組んでいく予定です。皆さんも一緒にきれいになりましょう。
2020年は、viwaとしてもオンライン化の加速に加えて、初めての取組にたくさん挑戦しました。
これにより、新たな出会いもあり、1年間のメルマガ新規登録者数が100名を超えたのだそうです。これは設立以来の快挙です。
メルマガも10年間、休むことなく配信し続けることができました。当たり前に配信ができるというのはすごいことだと思っています。毎月、この作業にあたってくれているスタッフには感謝です。
やりはじめたけど、なかなか更新ができていなかったviwa talkも、竹内くんという新たなパーソナリティを迎え、再び、走り出すことができました。
また、弱視の大学生が2名、体験記を定期的に執筆してくれています。
10周年の節目にこのような多くの新たな挑戦ができたこと、そして、つながりをつむぎだすことができたことは本当に嬉しい出来事でした。
さて、ここからが2021年についてです。笑
10年という節目を迎えたことで、
「奈良さん、次の10年はどうするのですか?」
という質問を投げかけられるようになりました。
この10年で検索すれば視覚障がいに関連する情報がでてくるという環境を作り出すことができたかなと思っています。実際に、viwaのブログをみて個別にご相談をいただくケースも増えてきています。この情報の蓄積は引き続き次の10年にかけても行っていきたいと考えています。
この10年は創生期、まさに、viwaという骨組みづくりでした。
ですから、これからの10年はこの骨組みに少しずつ肉付けをしていけたらと考えています。
10年かけて、点をつくることができた。
次の10年は点と点を結びそれを線にしていきます。
線ができたら次は線と線をつないで面を作っていきたい、そんなふうに考えるようになりました。
私という点からは、次世代を担う10代、20代との間に線をつないでいけたらと思っています。なぜ、このように思うようになったかというと、私自身、20歳前後のときに先輩方が私という点に興味をもち、先輩方へとつながる線を引っ張ってくれました。それらがきっかけともなり、私はこういう活動を始めました。次は私が後輩たちに線をつなぐ番なのかもしれない、そう思ったのです。
2020年は新しい生活様式に慣れるのが精いっぱいの一年でしたよね。
だから、2021年はこのニューノーマルに私たちがもっとなじんで、できないことをできる化するための取組をすすめていきたいと考えています。
私たちの活動は、この記事を読んでくださっている一人ひとりの方々の「ちょっと困ったな」が動力源となっております。ぜひ、皆様からは引き続き、「こういうことに困っているんだけど」というリアルなお声をお寄せいただけたらと思います。
「こんなことで困っているのはきっと私だけ・・・」
そんなふうに思わずに、ちょっと、知り合いに相談するような感覚で私たちに話しかけてもらえたらと思います。
viwaには私も尊敬する、素晴らしいスタッフがたくさんいます。彼らは自分たちの経験、知恵、工夫が何か役に立つならばと動いてくれます。
こんな世の中だからこそ、一人で悩まないでください。
スタッフの谷田さんが口癖のように
「私は視覚障がい者の孤独をなくしたいんです!」
といつも心強い口調で話しています。
この気持ちはきっとみんな同じです。
2021年も皆様にとって、「困ったときのviwa」といっていただけるような活動を展開できたらと思っております。
今年一年が皆様にとって笑顔あふれる一年になりますことを心より願っております。
viwa 奈良里紗
2020年12月31日木曜日
体験記:私がルーペを使えるようになるまで
皆さま
こんにちは。Viwaの村上です。
私は弱視者となったころから、ルーペと単眼鏡を使用して、近くのものや遠くのものを見ています。
今でこそスマホのカメラ機能を使うことが多くなったので、単眼鏡を使う場面は少なくなりましたが、ルーペについては生活必需品です。
電車に揺られて本を読むとき、スマホの画面をみるとき、書類に目を通す8時、
様々な場面でルーペを使用しています。
先日、ある方から「どうすればルーペを上手に使えるようになりますか?」と相談を受けました。
そこで、ルーペを使用している当事者の立場とこれまでの経験として、どのようにルーペを使えるようになったのかとうことについて、、書き留めてみようと思います。
※あくまで私の思い出話となりますので、予めご容赦ください。
1. ルーペを使うための訓練
私が弱視となったのは小学校2年生の頃です。
その時の私の課題は、学校生活をどのように過ごすのかということでした。
いわゆる普通鋼でしたので、先生が黒板に書いた内容をどのように見るのか、教科書をどのようにして読むのかが主な課題でした。
主治医の勧めがあったことと、比較的近くにロービジョンケアをしているリハビリテーション施設があったため、週に1回程度の訓練を受けることになりました。
学校が終わってから、母の車で定期的に通うことになりましたが、私自身はお出かけ気分だったのかもしれません。
このように、定期的に訓練を受けることができたのは、とても良いことだったと思います。
理由は、ルーペや補助具にはたくさんの種類があり、自分に合ったルーペはすぐには決められないからです。
もちろん、視力や見え方によって、どの程度の倍率が良いかは検討をつけることができます。
ですが、どのような場面でルーペをつかうのか、そのルーペを使う場所の環境(例:明るさなど)、ルーペへの心理的な受容状態によって、同じ倍率のルーペでも使い勝手が異なり、同じ倍率でも違う倍率のように映ることがあるからです。
定期的に訓練を受けることができるメリットは、あるルーペを借りてから次の訓練までの間に、実際に使い勝手を試すことができることにあります。
訓練を受けているときには、「このルーペが良い」と思っても、実際に地上生活を送る中で試してもいると、思ったよりも合わなかったということが良くありました。
例えば、手持ち型のルーペでライト(明かり)がつくものがありました。学校ではデスクライトもなかったので、手元が明るくなるルーペが良いと訓練の時は思っていました。ですが、実際に学校場面で使う時には、そのルーペで教科書を読むときには、読むもの(例:教科書)にルーペを水平に置く必要があったため、ページの境目の文字などが読みにくかったのです。ライトがなくても、読むものとルーペの距離を調整しながら自分でピントを合わせるルーペの方が、私には使い勝手が良かったのです。
環境だけではなく、本人の心理的な受容もポイントになるかもしれません。
私の場合は、小学2年生から学齢が上がることで、周囲からの目が気になるようになりあmした。中学校の時の私は、病院の先生に勧められたとしても、ちょっと目立つような大きいルーペは使いたくなかったです。本人が使いたくないというから使わなくても良いということではありませんんが、ルーペや補助具に対して本人がどのような受け止め方をしているのかは大切なポイントであり、そのような状態を相談する意味でも、定期的に訓練に通えていたことはとても良かったと思います。
2. 訓練のポイント
訓練の様子ややり方は、子どものころだったこともあり残念ながら正確には覚えて入ません。
その中でも記憶にあるのは、訓練の辛さよりも楽しさがあったことです。
ルーペはすぐに使えるようになるわけでもありませんし、自分の見え方に合うまでは疲れてしまい、頭痛や気分が悪くなることもありました。
ある時、単眼鏡を借りてから家のテレビを単眼鏡で見るようにしていました。テレビ画面とピントを合わせるのが大変で、さすがのテレビ好きな私も単眼鏡を使ってテレビを見るのが嫌になりました。
慣れないルーペを使うというんもは、本当に疲れるものです。
話を戻しますが、担当してくださった視能訓練士の方が良くほめてくれた記憶があります。
「〇〇くんは、頑張り屋さんだね」「すごいねー!」「さすがだね」「賢いね!」と訓練中によく声をかけてくれました。
私が単純なのかもしれませんが、そんな声かけを聞いていると、自分は当たり前のことではなく、特別なすごいことをしているんだという気持ちになり、(訓練中の)今は頑張ろうと思えたのだと思います。
声かけではなく、訓練後は好きなシールを選んで連絡用のノートに貼っていました。
シールが何個もらえるのかというのも、子どもながら楽しみの一つでした。
3.ピント調整
さて、訓練の内容に関しては小さいころだったこともあり記憶があいまいなため、詳細を書き留めることができません。
ただ、ルーペであれ、単眼鏡であれ、私が苦労したのはピント合わせです。
モノを見ようとしてもピントがあわずにぼやけてみえてしまったり、ぼやけた状態からピントを合わせようとするだけで、気持ち悪くなり疲れて嫌になってしまうことがあります。
ピントを合わせるための工夫として、私はピント合わせの目印を作るようにしました。
例えば、ルーペの場合はモノとルーペまでの距離によってピントが合わせることができます。そのため、私はルーペを使って見やすい(ピントが合っている)位置を見つけたら、そこに指をそえて、指の腹のどの位置にルーペの下の部分があたるのかを確かめました。私の場合は、中指分くらいの距離があるとルーペがピンがあっている状態であることがわかりました。単眼鏡の場合は、普段よく使う場面での、ピントの距離を目安にしていました。例えば、学校の机の位置から黒板の距離でピントが合う状態で、その時の単眼鏡の筒の長さを指の本数で測っていました。自分の教室の机から黒板を見るときに、ちょうどよいピントが指3本分。理科室に異動した場合は、自分のクラスの教室よりも机から黒板までの距離が遠いので、3本よりも少し筒の長さを狭くするとちょうどよい。kのようにして、基本となる目安から対象物の距離に応じて調整していました。
このようにルーペであれ単眼鏡であれ、ピントを合わせるときの目安となる状態を指の本数などで測ることにより、自分なりにピントを合わせやすくしていました。
もちろん成長とともに指の大きさも変わりますので、最初に決めた目安を微調整することで対応していました。
ルーペであれ単眼鏡であれ、一度「使いやすさ」を味わうと、
新しい補助具を使い始めるときにも、うまく適応することができきます。
なんでもそうですが、慣れるまでは辛いこともあります。
それを、「慣れるまでの辛抱」と捉えて、実際に試してみようという気持ちになります。
実際に試してみて、相性が悪いこともあります。勧められた補助具を使いこなせないこともたくさんあると思います。
いろいろな試行錯誤を通して、自分に合った補助具が見つかると良いですね。
Viwa
村上
2020年12月5日土曜日
大学進学に向けて
みなさま
こんにちは、ハチです。
11月になり徐々に葉が赤く染まり始め、秋を感じることができるような時期になりました。皆様いかがお過ごしでしょうか?
私は自分の誕生日が近いこともあり少し浮かれていますが、まもなく就職活動本番ということもあり、自己分析や仕事研究など準備を進めております。現在は早めに準備を始めることができているのですが、高校の時の私は自分の将来について考えることが面倒くさく、なかなか最初の一歩を踏み出せませんでした。大学進学を決めたのは高校2年生の夏ごろだったかと思います。受験をする大学を決めるためにもオープンキャンパスに行って面談を受けたり、情報収集をしたりしなければなりません。しかし、私はギリギリになってようやく危機感を持って行動し始めたのです。希望の進路先が特にない場合は、専攻科に行くということに家族の中でなっていましたが、私は敷かれた線路の上を走ることに抵抗があり、自分自身の好きな事、興味のある事を学びたいと強く思っていました。進学について考えると言っても、具体的な進路先が最初から浮かんでいたわけではありません。また、自分が興味のある事、障がい学生への配慮など様々なことに目を向けなければならず、たくさんの不安もありました。しかし、パソコンやオーディオ機器など機械に興味があったので、筑波技術大学の見学をしたり、なんとなく情報システム学科がある大学のオープンキャンパスに参加したりしていました。時には、将来エンジニアとして働く自分を想像してみたり、障がい学生に対する配慮が受けられない大学もあり失望したりしました。しかし、先生や家族と話すことを通して、プログラミングを学んで将来働いていけるのかということを考えるようにもなり、いつしか情報系の大学を進路先として考えなくなっていきました。学ぶ場所で障がい学生への配慮が充実していたとしても、社会に出た時に職場環境が整っているのか、自分の障がいに合わせて働き方を工夫していけるのかといった不安も感じるようになったのです。そして、その時に思いついたことが福祉系の大学への進学でした。福祉は障がい当事者である私にとって身近な分野ではあるのですが、福祉サービスを利用している実感もあまりないため、最初から福祉分野を進路の候補として考えることはなかったのです。当初の私は、どんな人になりたいか、どんなことがしたいかと聞かれたとしても「人の役に立ちたい」と答えるほど漠然とした考えしかありませんでした。小学生の時にいじめを受けていたこともあり、なんとなく心理職が良いなと思っていましたが、母親から社会福祉士の存在を教わったことで社会福祉学部に入ることを決意することができました。そして、ある程度の水準で障がい学生への配慮がなされており、福祉を学ぶ場としてふさわしい場所であると感じた日本福祉大学へと入学したわけです。
就職前に改めて振り返ってみているわけですが、今までの私が考えてきたこと、してきた選択に間違いはなかったと今でも感じています。専攻科への進学が悪いことだとは思いませんし、それも1つの道であると感じるのですが、私には専攻科と言う選択肢がありませんでした。それは、学ぶ内容への興味・関心も関係するとは思いますが、多くの人と関わりながら様々な経験がしたかったということ、誰かと同じ道や誰かに言われて通る道に抵抗があったこと、自分でできることを増やして支えてくれている人に恩返しを早くしたかったことなど様々な理由があったからです。挑戦することを通し、今では目の前に壁ができたとしても、課題解決のためにどう行動するべきかを具体的に考えることができるようになりました。そして、私は現在まで、東京と愛知、一般校と盲学校というようにあらゆる場所で時を過ごしてきました。今までも多くの経験をしてきましたが、これからもたくさんの経験をして視野を広げていきたいと考えています。もちろん、新しいことに挑戦する時に障がいがあることで不安になることもあります。しかし、進学する時に勇気を出して一歩を踏み出したからこそ、今になって自分らしく生きていくことの面白さを感じることができているのだと思います。人生は選択の連続ということで、読んでくださっている方も障がいの有無に関わらず悩むときがあると思いますが、後悔しないように皆で考えて、歩んでいきたいですね。最後まで読んでくださってありがとうございました。
viwaスタッフ ハチ
2020年10月25日日曜日
私(ハチ)の障がい受容~大学生編~
皆さま
スタッフのハチです。
前回の小学生編に続き、今回は高校生編をお届けします。
小学生編(前編)はこちら↓
https://www.viwa.jp/2020/09/blog-post_26.html
小学生編(後編)はこちら↓
https://www.viwa.jp/2020/10/blog-post_4.html
中学校編
https://www.viwa.jp/2020/10/blog-post_18.html
高校生編
https://www.viwa.jp/2020/10/blog-post_25.html
〇大学生編
なぜ、私が現在通っている大学を選んだかというと、在籍している障がい学生の数が多く、福祉を学ぶ環境としてふさわしいと思ったからです。ちなみに、私が入学した年は、視覚障がいの学生が例年よりも多く入学した年でした。その年の障がい学生は110人以上在籍しており、その中の8人が視覚障がいを持っている学生でした。実際に入学してからは、視覚障がい以外の障がいがある学生と交流する機会もでき、障がいによって異なる特性や困難な事、抱えている悩みなどをより一層知ることができるようになりました。また、ある視覚障がい学生から今までの経験の中で感じてきたことなどを聞いたときに、障がいがある状態を納得する過程では、人によって様々な苦労があり、障がいと向き合っていくことは簡単な事ではないのだと改めて強く思いました。そして、様々な障がいについての理解を深めるにあたり、1人ひとりが障がいを受け止めていく中で、もどかしさを感じたり、苦労したりしている状況を少しでも改善できるよう、一緒に考えていきたいと思うようにもなりました。そして現在の私は、学内での支援活動や福祉実践教室への参加、プログラムの開発準備など、当事者としての視点や考えを活かした活動を行っています。このような活動をしていくことも、私が障がい受容をしていく上では大きな影響がある、と実際に取り組んでいて感じています。これまでの人生では、障がいというものを私は主観的にしか見ていませんでした。しかし、様々な活動を行うことで、私自身は多くのことを学び、障がいを客観的に見つめ直すことができるようになってきていると思うのです。
最初に申し上げた通り、年齢を積み重ねていく中でも、障がいに対して歳相応の課題が出てくると私は思います。自分自身も20歳になったことで障害年金の申請をしてみたり、法改正に伴う障害等級の変更があったりと、大学生になった今でも障がいと向き合う場面があります。しかし、これからの人生において、障がい受容をスムーズに行えるとは限りませんし、これからも自分の障がいについては考え続けなければいけないことであると感じています。
大学生活でも障がいが関係したことで悩んだことはありました。それは、アルバイトの応募についてです。大学入学当初、私はアルバイトをするために様々なところに応募をしましたが、学外では様々な所で障がいを理由に断られてしまいました。そして、結果的に現在は学内でのアルバイトをしたり、Web制作など自分の特技を活かして仕事をしたりする形となっています。学外でアルバイトをできないことに関しては、しばらくの間悩んでいましたが、その過程で1つ気づいたことがあります。それは、私たちもしっかりと自己分析をし、自分ができることは何なのかを相手へ的確に伝えることができるようにしていかなければならないということです。確かに、雇う側の目線として、何かあったときに責任を負うことができないという問題があるのかもしれません。ですが、自分のできること、お願いしたいことを分かりやすく伝えて、相手の状況に合わせて柔軟に対応をすれば、建設的に対話を進めながらよりよい環境を生み出していけるような気がします。このことからも分かるように、障がいについて悩むということは、新たな発見をすることができるチャンスといえるのではないでしょうか。
障がいを受容していく過程では悩むこと、不安になることもありますが、乗り越えた後の達成感はとても心地よいものだと感じます。そして、今改めて思うことは、自分が置かれている状況によって、葛藤や悩み、不安が新たに生じるという点は、何歳になっても同じなのだなと思います。これからの人生において、時には自分がしたいことが上手くできなかったり、思うようにいかなかったりすることもあるかもしれません。しかし、そんな時に全て環境や他人のせいにするのではなく、どのように工夫をしていけば状況を良い方向へと変えることができるのかを考える必要がある、と日頃の生活の中で、私は実感しています。
〇おわりに
障がい受容ができていないと社会で暮らしていく上では大変苦労すると思いますが、受容は無理にするものではないとも私は感じます。もちろん、1人ひとりの生活環境や障がいの状況は違いますので、個々に合った方法や度合いで障がい受容をしていけば良いと思います。しかし、避けなければならないことがあります。それは、本人が受容できるようになった時に誰にも頼ることができず、受容することさえも辛い状況になることだと思います。人は1人では生きていけないと感じますし、実際に私も多くの人に支えられて生きています。それは障がい受容をする上でも同じである、と私は考えます。先天性の場合には、保護者の方がどのように接するのかによって、障がいの受容のしやすさが変わってくると思いますし、中途障がいの場合にも、自立できる能力を習得するまで、寄り添ってくれる人の存在が必要となってくると感じます。私も障がい受容をするときは不安になる事があります。受容したくても自分で何をすれば良いのか、すぐには分からないこともあります。しかし、そんな時に見守りながら話を聞いてくれたり、私の声に耳を傾けて手を差し伸べてくれたりする家族がいてくれたからこそ、これまで障がいを受容できるようになったのだと思います。当事者とコミュニケーションをとることは、障がいについての理解を深めることができるだけでなく、障がいの受容について考えながら接することも可能になるのではないでしょうか。
さて、今回私は自分の経験や考えを基にして、お話を展開してきました。今回、このような貴重な機会をいただけたことにより、私は障がい者として、1人の人として、自分自身と再度向き合うことができました。私の今までを振り返ってみると、多くの人に支えられ、自分の障がい受容の度合いや程度に合った支援と挑戦する機会を与えてもらったことで、自信が持てるようになり、障がいを持っていることを否定的に捉えることはなくなったように感じます。そして、障がいを受け止めること、納得することに明確な正解はない、と私は思います。また、障がいの受容の在り方も人によって違うと思うのです。今の私にとって障がいとは、自分自身そのものです。障がいがあっても私は私であり、1人の人間であることには変わりない、と今になって思います。もし、昔の私に会えるとしたら、障がいを持っていても、そうでなかったとしても私はこの世に1人しかいないのだから、自信を持って自分らしく生きてほしい、と伝えたいです。当事者自身があらゆる挑戦をすること、自分について積極的に発信していくことは、障がいについて周囲に知ってもらうということだけでなく、障がい当事者が自分自身、自分の障がいと見つめることができる良い機会ともなると考えています。このような場を今回作ってくださった多くの方々や読んでくださっている皆様のおかげで、私はさらに成長することができました。当事者が自分のことを考えるということは、これからに向けた大きな一歩を踏み出すことにつながると私は感じます。今後も自分らしさを大切にしながら生きていきたいです。お付き合いいただき、ありがとうございました。
Viwaスタッフ
ハチ
私(ハチ)の障がい受容~高校生編~
皆さま
スタッフのハチです。
前回の小学生編に続き、今回は高校生編をお届けします。
小学生編(前編)はこちら↓
https://www.viwa.jp/2020/09/blog-post_26.html
小学生編(後編)はこちら↓
https://www.viwa.jp/2020/10/blog-post_4.html
中学校編
https://www.viwa.jp/2020/10/blog-post_18.html
〇高校生時代
盲学校での中学生活に充実感を得た私は、引き続き盲学校の高等部へ通うことを決め、大きな期待を胸にして進学しました。と言っても、受験に失敗しているため、周りの人の支えがなければ、気持ちを切り替えることは難しかったです。中学生活を附属盲学校で3年間過ごし、自分が大きく成長できる場であると実感したため、高校も附属盲学校に行きたい!と私は考えていましたが、結果は不合格でした・・・。それを知った時は、自分なりに頑張ったのに不合格になってしまい、これから私は成長していけるのかと不安になりました。
実際に高校へ進学してから、最初は附属盲学校のことを思い出しながら過ごしていました。そのような私に、父親に残念なのも分かるが、もしかしたら名古屋の盲学校ならではの発見や成長があるかもよ、と声をかけられてからは、環境への見方が少し変わりました。確かに、附属盲学校では主体性を大切にしていたり、クラスメイトが多いことで視野を広げやすかったり、人間関係で困った時にも相談できる相手がたくさんいたため成長できる場面が多くありました。しかし、父親の言葉を聞いてから、名古屋の盲学校ならではの良さが見えてきました。クラスメイトの数が少ない分、1人ひとりと深い関わりを持てるようになったり、自分の役割が作りやすかったりする部分もあり、少しずつではありますが、名古屋盲学校での生活を前向きに送ることができるようになっていきました。
また、高校に進学した当初は、附属盲学校のことを想像し、地方盲学校は授業の進捗状況が遅いのではないかと気にすることが多くありました。そのような時にも高校時代の私を支えたものがあります。それは、附属盲学校で数学を教えてくださった先生が卒業メッセージとして、送ってくださった言葉です。学生時代に学習した内容を大人になってから多少忘れてしまっていたとしても、学生時代に自分が学び、考え、何を身につけたのかといった当時のエピソードを思い出してもらえれば嬉しい、という内容でした。この言葉を思い出してからの私は、授業の進捗状況よりも科目ごとに身につけられる力は、どんなものがあって、それらを身につけていくためには、どのように学習していけば良いのかということを考えるようになりました。
それからの高校生活は、中学時代で大きな成長をすることができたこともあり、様々な場面でモチベーションを上げて物事に取り組むことができました。しかし、そのような中でも葛藤がありました。親元に戻って母親と生活するようになったことで、自分にとっての嫌な思い出がフラッシュバックすることがありました。小学生のころに母親に否定されていたことで、社会からも良くないイメージを持たれているのではないかという不安を感じたことがありました。また、満員電車の中で邪魔者扱いをされて暴力を振るわれたこともありました。高校にも相談はしたものの、自分の中で抱え込みすぎてしまい、自分が障がいを持っていることで人に迷惑をかけていないかと不安になりました。街中で歩いていても、さっきすれ違った人とぶつかっていないか、傷つけていないかと感じ、不安で仕方なく時期がありました。しかし、仲良くしてくれていたクラスメイトに話を聞いてもらう中で、過去に囚われ過ぎず、色々なことに目を向けた方が良いと感じるようになり、不安になる事が徐々に減っていきました。
その後の高校生活で色々な事に目を向けていく中で、電子教科書の実証実験や生徒会活動へ参加するようにもなりました。先ほど挙げたクラスメイトと協力し合いながら、学内の環境を良くし、人の役に立つために、あらゆることに目を向けてたくさんのことを考えていったのです。その中には先生に却下されることもたくさんありました。例えば、各委員会の話し合いの進行を先生ではなく、生徒が行うべきなのではないかという案です。私は主体性を大切にしながら、積極的に物事に取り組んでいきたかったので、却下されたときにはとても残念に思いました、他にも、部活動の活動時間の延長を検討したこともありました。しかし、そのような中でも、階段を見やすくするというプロジェクト案を提案した時は、生徒全員の意見を集めることができる機会を作ってもらうなど、先生の協力を得ることができました。そして、このプロジェクトでは色覚障がいなどのことも視野に入れて検討することとなりました。視覚障がいと一言で言っても色覚や視野など症状や見え方は1人ひとり異なると思います。階段を見えやすくするという、この活動を通してそれぞれの違いに合ったものは何か、自分と違う症状や病気にはどのようなものがあるのかを考えるようになりました。そして、これから多くの人と関りながら障がいについてより理解を深めたいと感じるようになりました。これが、大学進学への大きなポイントとなったのです。
進学を考え始めた頃は、福祉に興味を持ったものの、心理面や環境面などどのような分野で人を支えたいのかは考えておらず、漠然としたイメージしかありませんでした。しかし、志望校を決めるときには、母親から社会福祉士は幅広い分野で働いているということを教えてもらい、大学に通いながら詳しく知りたいことを見つけていけば良いのではないかと意見をもらいました。そのことにより、具体的な考えを持つことができるようになりました。父親は、私のやりたいことを尊重しながら、受験に失敗したときのことや将来のことを考えて、盲学校の専攻科など他の選択肢についても提案してくれました。両親に高校生活で考えたことを細かく説明したことはありませんでしたが、私の目指すものを認め、大学での私の障がいに対する配慮に関しても一緒に考えてくれたことで、私は無事に現在通っている大学に進学することができたのでした。
次回は、大学生編をお届けします。
ハチ
2020年10月18日日曜日
私(ハチ)の障がい受容 中学生編
皆さま
スタッフのハチです。
前回の小学生編に続き、今回は中学生編をお届けします。
小学生編(前編)はこちら↓
https://www.viwa.jp/2020/09/blog-post_26.html
小学生編(後編)はこちら↓
https://www.viwa.jp/2020/10/blog-post_4.html
〇中学生時代
普通校での居心地があまり良くなかった当時の私は、盲学校へ行くことを決意しました。そして、幼稚部に通ったことがある筑波大学の附属盲学校の中学部に入るため、中学受験をしたのです。中学時代は一番自分が成長できた時期かな、と現在振り返って思います。小学生時代の影響で人間不信に陥っていた部分もあったため、入学当初は、クラスメイトと些細なことで言い争って投げやりになったこともありました。また、障がいを持っていることで受けたいじめから生まれた、人間関係に対する不安感と実際に友達と上手くやっていかなければならないという現実の差から、自分との葛藤がありました。
そんな時、定期的に日頃の様子を聞きながら、見守ってくれる存在が身近にありました。私の父親です。父は、私の話を否定することなく、まずは受け止めてくれました。いけないことは、明確な理由を説明しながら優しく教えてくれました。私は、盲学校に入学し、自分と同じ障がいを持つ人と一緒に過ごすようにはなりましたが、この段階では自分の障がいを受け止めきれずにいた部分があり、複雑な気持ちでした。そんな時に自分の話を聞いてくれる存在が近くにあったからこそ、自分自身も状況を整理することができました。
中学生のクラスメイトは、持っている病気が違ったとしても、同じ障がい者としてできること、できないことに関して、それぞれ気を配ってくれていたので、過ごしやすい環境が自然にできていたように感じます。そのような中で、私は少しずつ自信を取り戻せていったような気がします。当事者同士が尊重し助け合っていけば、楽しい学校生活を送ることができる、と少しずつ気づくことができました。
また、中学生という早い段階で親元を離れたこともあり、最初はできないことを自分でやろうと努力もせず、すぐに人に頼ってばかりいましたが、3年間の中で出来ることを増やしていきました。例えば、靴の紐結びや爪切りなど、今では当たり前だと感じるような身のまわりのことが、当時の私にとって苦手な事であり、自宅でかなり練習したことを覚えています。なかなか上手に細かい作業を行うことができない私に対して、自宅に帰省した時に、両親が解いた状態の靴を渡して、練習する時間を作ってくれました。私はできない理由を障がいのせいにはしたくないという思いもあり、必死に練習して、自分でできるようになったことで、少しずつ自信につながりました。
中学生の心身の状態は3年間で大きく変わっていきますが、そのような学生時代にどれだけ本人が1人でできることを増やせるかが、大きなポイントだと私は思います。またそれは、自立して生活を送る上で困らないようにするためにも大切なことであると感じます。もちろん、いきなり挑戦しようとしても、不安に思うことやできないことに対してもどかしさを感じることもあると思います。私の両親は、私に挑戦する機会を与えてくれましたが、その時に私の両親は決して強制をせずに私のことを見守ってくれていました。私はこのことから、チャレンジするための小さな目標を一緒に作りながら、本人のペースで進めることが大切だと考えました。コツをつかみ取ることができれば、できるまで頑張ろう、と少し前向きに考えることも可能になってくると思います。そして、両親は目標を達成できたときには、褒めてくれていたので。できることが増えていくに従って、障がいを持っていても工夫次第でできることは多くなるということを、私は実感することができました。
私は中学生の時に、周囲の友人とのかかわりや両親の支えがあり、自らの障害受容を進めることができました。
次回は、高校生編をお届けします。
ハチ
2020年10月4日日曜日
私(スタッフ「ハチ」)の私の障がい受容~小学生 後編~
皆さま
こんにちは、viwaスタッフのハチです。
前回の記事に続き、小学校後編をお届けします・
前半記事はこちら↓↓
http://www.viwa.jp/2020/09/blog-post_26.html
さて、この時期家では、いじめを受けていて辛いということを、母親に勇気を出して相談しました。あなたが悪いことをしたのではないか、という疑いをかけられたのです。そのことにより、当時の私は、母親までも自分のことを見捨てるのかと感じ、障がいを持ちながら生きることに疲れを感じるようになりました。また、障がいを持った状態で産んでしまって申し訳ない、と母親に泣かれたこともありました。今となっては、母親なりに親として、私のことを心配してくれていたのか、と思うことができます。ですが当時は、自分に障がいがあることで家族まで悲しませてしまうのなら、私はこの世にいてはいけないのではないか、生まれてきてはいけなかったのだ、と感じてしまっていました。障がいを持っていることで自分ができることは限られ、そのことで家族にも辛い思いをさせてしまうのではないかという無力感で、自分自身の存在を肯定できなくなっていきました。このようなことから、辛いと感じることに寄り添ってくれる身近な存在や障がいを持っていたとしても、できることはたくさんあるから頑張ろう、と一緒に歩んでくれる人が当時の私にとって必要であったと今振り返って思います。当時の私にはそれらがなかったことにより、障がいと向き合っていく中で前向きな考え方をなかなか持てませんでした。
一方で、地元の小学校で学校生活を送ったことで良かったと思うこともあります。それは、晴眼の子に自分の障がいについて伝える力を身につけることができた点です。私は授業の時間を借りて、自分の障がい、視覚障がい者が利用している補助具に関する紹介をクラスメイトにしたことがあります。分かりやすく伝えるにはどのような工夫をした方が良いのか、具体的に自分がしてほしいことは何なのかを自己分析し、周囲に伝える練習となりました。この経験があったことで、中学生以降に自分のことについて紹介するときも、専門用語をあまり使わずに、支援してほしいことや自分の症状などを伝えていくことができるようになりました。
確かに、いじめの対象となるということは好ましいことではないと思います。私がいじめを肯定したいわけではありません。しかし、「いじめ」という経験を通して様々なことを感じるということは、障がい受容をするにあたり、私の中で大きな影響を与えたとも感じています。
小学校後編は、以上です。
次回は、中学校編をお届けします。
viwaスタッフ
ハチ
2020年9月26日土曜日
私(スタッフ「ハチ」)の障がい受容~小学生 前編~
皆さま
こんにちは、ハチです。はじめましての方も多いと思います。私は現在大学で社会福祉について学んでいる者です。突然ですが、皆さんにとっての「幸せ」とはどんなものですか?きっと、幸せの定義の基準は人によってそれぞれだと思います。福祉は「ふだんのくらしのしあわせ」を表す言葉ということで、それぞれの人にとっての幸せとはどのようなものなのかを、私は日々考えながら過ごしています。
とは言っても、実は私も福祉サービスを利用している視覚障がい者の1人なんです。まず、私の見え方についてお話します。私は、先天性の無虹彩症という難病を持っていて、それによって緑内障にもなっています。視力は両眼0.1程度ということで左右の差はあまりなく、視野にも問題はありません。ちなみに、眼振が激しいそうですが、言われるまで自覚がなかったほどで、普段暮らしている上で支障は出ていません。私の特性としては、無虹彩症や緑内障の影響で眩しいところが苦手という点が挙げられます。
次に学習環境についてです。小学校は愛知県にある一般校、中学校は筑波大学の附属盲学校に通いました、高校も附属盲学校志望ではありましたが、受験に失敗したため高校は名古屋盲学校に通うこととなりました。
現在は大学に通って学習しているわけですが、自分の障がいについて受容する場面が、これまでの成長過程でも多くありました。自分がこれまでどのように障がいと向き合ってきて、両親や周りの人にどう支えてもらいたかったのか、何をしてほしかったか、というお話をこれからさせていただきたいと思います。小学生のころはマイナスなエピソードが続きますが、そこから立ち直っていく過程を読み取っていただければ幸いです。
1.小学生時代
地元の小学校に通っていた小学生の時の私は,障がい者であることが原因でいじめられていました。いじめについて先生に相談してはいたものの、状況が改善されることはなく、毎日が辛いと感じていました。いじめられることで感じる辛さは、悪化していくにつれ増大し、障がいを持っていなければ、こんな辛い思いをしなくても済むのにと感じるようになっていきました。障がいを持っていることに対して、イライラは日を重ねていく中でどんどん増していきます。当時の私は、障がいを持っていることはできないことばかりなのだと感じていました。確かに、障がいを持つことにより、生活する上で不便だと思うことはあります。しかし、障がい者は弱い者でもかわいそうな者でもないと今の私は思います。困った時に助けてもらいたいだけであり,同じ人間であることに違いはないと感じるのです。
また、疑問に感じていたこともあります。当時は、周りと比べることが多くあり、あらゆることに挑戦したいけど、自信が持てないという状況であったように感じます。配慮して免除されていたことに関しても、頭の片隅では、なぜ皆と同じように行動することができないのだろうと行動を制限されているかのように受け止めてしまい、疑問に感じていた部分もありました。また、自分自身でどの程度物事に取り組むことができるのか、ということを模索中であったこともあり、当時の私にとって不満に感じることもありました。このように他の人と同じように行動したいと思う反面で、いじめを受けていることで自己肯定感が下がっており、なかなか自信を持つことが難しいという現実にも直面していました。そのため、小学生の頃の私は、人に物事を代わりにしてもらうことが多かったように思います。
とは言っても、クラスメイトと同じように授業を受けられないことに関して疑問を感じていた部分もあります。体育の授業で球技を行った日のできごとです。先生は、クラスメイトが球技をしている間、私をグラウンドの隅の方に座らせていました。当時の私は、皆と同じように扱ってくれないことに疑問を抱いたり、不満を感じたりしていました。しかし、今振り返ってみると、危険な状況の中で授業をさせないため、先生なりに配慮してくださったのだと思います。ただ、本当にしてほしかったことはそのようなことではないとも感じています。本当は、危ないからと言って最初から活動自体に参加させないようにするのではなく、クラスメイトと同じ活動を行っていくにあたって、どのような点に気を付け、どのような工夫をすれば良いのかということを、私と一緒に考えてほしかったと思っています。
小学校前編は、以上です。
後編へ続きます。
viwaスタッフ
ハチ
2019年11月13日水曜日
当事者が語る触覚の感覚と記憶
こんにちは。viwaの奈良です。
今回は、和太鼓奏者である片岡さんの触覚と記憶に関する素敵な文章をご紹介します。
いつも、とても面白い視点で分掌をつづられている片岡さんのブログやメールマガジンも必見ですよ!
もちろん、本物の和太鼓の演奏、私もいつか体感してみたいです♪
https://ameblo.jp/funky-ryota-groove/
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コラム「私の視点」
「触覚をたどる」
皆さんは何かの印象を心に焼き付ける時、
五感のうちでどれを最も大事にしていますか?
僕は触覚です。
触り心地や手で感じた形状、重さが
その対象物と結びつきます。
それが呼び水となり、時に思いがけず過去の出来事が思い出されることも。
今回は僕のそんな瞬間について書かせていただきます。
全盲の僕にとって耳から入る情報と同じくらいに、
手や全身の肌で触れた時の感触は、ものを認識するうえでの大切な道しるべ。
スマホやパソコン、現在演奏で使用している種々の太鼓、
旅先で出会った様々なもののように、
失明以後に初めて手にしたものについては、
目で見た印象を知らないので、なおのこと触覚から得た情報が、
そのものを表す印となります。
視覚イメージが思い起こせるものについても、
年々想起するものが変わってきました。
例えば、西瓜(すいか)。
かつては、皮の緑と黒の縞模様や、赤い果肉に粒粒と種がある映像が
詳細に浮かびましたが、
現在では、そういったヴィジュアルは少しぼやけて、
味や舌触り、口の中に広がる果汁の水分が思い浮かぶようになりました。
そしてもう一つ、全盲になりたての10歳の時に感じた、
指の感触が戻ってきます。
ある日、当時通っていた盲学校の給食で、
デザートの西瓜の皮とお皿を持って下膳していたところ、
たまたま親指が皮に残った実に触れたので、
少し押してみると、
ブチブチブチっと細かな泡がはじけるような音が聞こえそうなくらい、
指の下で果肉がつぶれ、
汁が染み出していく様がよくわかる。
その少しくすぐったいような感触が面白く、新鮮で、
しばし夢中になってしまいました。
点字を覚えだし、触れることが、
これから自分にとっての「見る」ことになるのだと、
認識しだした当時の僕の心に、
目だけではわからない感覚の面白さが芽生えたあの瞬間は、
触察する喜びに目覚めるきっかけの一つです。
目でも見たことがあるし、手で触れたこともある物を想像した時、
ある時期までは視覚情報が鮮明に像を結んでいました。
ところが、記憶の画像は徐々にディテールが崩れ、
象徴的で不鮮明な映像となって、
代わりに、触覚の記憶がはっきりと形を成すようになりました。
それは、見えていた頃の記憶を徐々に失うという意味でもあるので、
寂しい部分もありますし、目で楽しむものについては、
時折見たいと切望することもあります。
10年ほど前の春、
ふと思い立って母校上智大学の前にあるお濠(ほり)を歩いていた時のこと。
ちょうど桜が咲いており、お花見を楽しみながら散歩する人がちらほらいる中、
僕の真上でも咲き誇っている桜の美しさは、いくら触ってもわかりませんでした。
その不確かさが、
当時、演奏活動について疑問や焦りを抱いて不安に思っていた気持ちと重なり、
苦い痛みを感じました。
楽しげに桜をめでる人たちの雰囲気に水を差してしまいそうで、
いたたまれなくなって帰ろうとした時、
「あの」と中年くらいの女性の声がしました。
「これ、触ったら分かるかしら?」
そういって渡されたのは、手のひらいっぱいの花びら。
色も見えない、香織もかげない桜。
自分にはもう意味をなさないものなのかもしれないと、
背を向けかけた心が、繋ぎ留められたようでした。
あの時触れた花びらの滑らかな感触は今でも忘れられません。
手の届く場所にある喜びと暖かさを忘れてはいけない、
そう教わった気がしました。
桜の花を思い描く時には、いつでもじんわりと
あの切なくて暖かい思い出が胸を染めます。
子供の頃見た桜の美しさは
どんどん薄らいでいくけれど、
あの花びらの手触りと、
手渡してくださった方の心の温かさが重なって、
僕にとっての桜は、かつてよりも明るく美しいものに思えます。
もう増えることはないであろう
視覚の記憶の鮮度は落ちていくけれど、
触覚がもたらす感覚が増えていくことで、
大切な何かが心に刻まれているように思います。
思い出が詰まった写真のアルバムをめくるように、
僕の肌にはたくさんの記憶と大切な出来事が収められている。
それらをたどる時、一瞬で僕の心は時間も空間も超えていける。
いつか年を取って、自由に出かけることができなくなった時、
数えきれない触覚の記憶を通して、心が旅をできたなら、
すごく豊かなことだと感じます。
その日のためにも、手で見ること、これからも大切にしていきたい。
ーーーーここまでーーーー
いかがだったでしょうか?
2016年11月15日火曜日
20代後半で理療科の道へ 1学期を終えて
こんにちは。viwaの奈良里紗です。
今回はちょっとしたインタビュー記事をご紹介したいと思います。
みおさん(仮名)は、先天性の弱視女性です。
彼女からviwaへの相談メールがきたのは2015年の2月後半でした。
職場での仕事や対人関係に悩み、3年3ヶ月勤務をしたのちに退社。
相談当時は無職という状態でした。
お話を伺いながら、みおさんには心機一転新しい場所でこれから人生をかけられる何かが見つかるとよいのではないかなと思いました。
そんな中、話題にあがったのが盲学校の理療科へ入学し、鍼灸について学ぶという道でした。
ちょうど、ご相談をいただいた頃が入試シーズンで願書の受付は終了していました。
少し残念な気持ちになりながら、それでも1年間、じっくり準備をすすめますと力強くおっしゃっていたみおさんの声が印象的でした。
そんな彼女が今年の4月に入学した盲学校。
故郷を離れ、単身都会のど真ん中で寄宿舎生活を送ることになったみおさん。
彼女に今の心境について綴っていただきました。
これから理療の道を考えていらっしゃる方等、ぜひ一度、ご覧ください。
**ここから**
Q&A方式でご紹介します。
Q.盲学校の専攻科へいこうと思ったきっかけは?
A.就職や将来についての不安をviwaの方々に相談に乗ってもらったところ、盲学校の情報をいろいろと教えていただきました。
免許を取得するというのも目的ですが、様々な境遇の方と接することができる場所なので、今まで視覚障がいの方と関わることがなかった私には良い刺激が受けられるのではと思ったからです。
Q.入学前の見学ではどんな印象でしたか?
A.教育相談の先生方は多くの質問にも親切に答えてくださり、治療室の設備などもすごく整っているという印象でした。
Q.実際に入学してみてどうですか?
A.これまで体験したこととしては、複数人で外を移動するときにはぐれたり、メンバーの確認をするのが大変だと思いました。
模型や人の体を使って個別に部位の説明をしてもらったりなどは、こういった学校だからできることだと感じました。
Q.入学してみて今まさに困っていることはありますか?
A.今まで点字を扱う人との関わりがなかったので、漢字や場所の説明、手引きの仕方など今でもまだ悩むことが多いです。
Q.寄宿舎での生活はどのような感じですか?
A.起床・食事・入浴・門限など時間に縛られ不便に感じることもありますが、学校に比べ他の学年の人と接することも多く勉強やプライベートでも情報が得やすく感じます。
Q.学校がないときは外出したりするのですか?
A.学校の人たちと遊びに行ったり、1人でも買い物に出かけたりします。
Q.これから入学を検討している方に何かアドバイスがあればお願いします。
A.専門的知識を学ぶなら自分と同じような見え方、自分とは全く違う見え方でも工夫されて勉強しているのでとても参考になると思います。
先生方や先輩方とも話しやすい環境だと思うので、勉強のこともですが日常生活のことでも相談に乗ってもらったり経験を聞かせてもらったりできると思います。
特に同じ視覚障がいの人と関わることがなかった方には得られるものが多いはずです。
以上です。
key word 視覚障がい 理療科 盲学校 弱視 女性
viwa 奈良里紗
2016年11月13日日曜日
見えにくい私の子育て 入院生活編
こんにちは。viwaの奈良里紗です。
今回は、出産してから退院するまでの五日間の入院生活をご紹介します。
【初めてのおむつ替え編】
母親学級でお人形さんにはやったことがあったおむつ交換。
でも、新生児のおむつ交換は思っていたより、苦戦しました。
まず、授乳室に行くと助産師さんがいていろいろなことを教えてくれます。
私:「すみません、おむつ交換のやり方教えてもらえますか?」
助産師:「いいですよ。まず、おむつにはだいたいこういうラインが入っていて、このラインの色が青とかになると、交換の目安になります。」
私:「ラインですか?どれですか?(顔を近づけてみる)」
助産師:「じゃあ、やってみて。ほら、ちょうどおむつのラインの色が変わっているから。」
私:「はい。」
その後も、助産師さんとのやりとりは続くのですが、まずおむつ交換で困ったのはこの交換の目安になっているラインが薄い色のラインなので見えないんですよね。
私が弱視であることはもちろん伝えてありますが、私がそのラインが見えない様子をみて、助産師さんからは、
「この人、大丈夫なのかしら?」
と無言のオーラをひしひしと感じました。
当時は、そのおむつ交換のことで助産師さんにさんざん言われたのですが、自宅に帰って育児をする中で、ラインなんて見えなくても触った感じやにおいなんかで十分交換の時期はわかるわけです。
新生児の場合は、あまりにも少量のおしっこだったりするので、わからないときもあります。
でも、そういう時だって、3時間おきに交換するなど、工夫はできます。
入院した先の助産師さんが私に視覚障がいがあるということで、一緒にどうしたらできるかなという工夫を考えてくださる方だったらよかったのですが、どちらかというと、スパルタに、「どうしてできないの?」と毎日叱られていました。苦笑
【授乳】
出産直後から、おっぱいをだすためのホルモンが分泌されるのですが、これは赤ちゃんにも協力してもらう必要があります。
赤ちゃんにも一生懸命おっぱいを吸ってもらうことで、母乳がでるようになるんだそうです。
ただ、これもですね、なかなかうまくできないものなんです。
私だけではなく、同じ日に出産した方が5人いたのですが、みんなうまくできないーと嘆いていました。
ここでも、助産師さんからスパルタが入りまして・・・
「そんなんじゃ、赤ちゃんに栄養があげられないでしょう?」
「どうしてできないの?こうよ、こう!」
と繰り返し教えてくださるのですが、見えないものは見えず・・・
私も体力の限界にきていました。
【親呼び出し】
おむつ交換の様子や授乳の様子をみていた助産師さんたちは心配で仕方なかったようなのです。
このまま、自宅に帰したら赤ちゃんがどうなってしまうのか・・・
「この子、おうちに帰ったら誰が育てるの?」
と助産師さんに真顔で聞かれたときには、悔しくて悲しくてさみしかったです。
さらに、助産師さんから
「ちょっとお母さんにきてもらって今後のことについて話しましょう」
とまで言われてしまいました。
親になったと思ったら、まさかの親呼び出し・・・
もう笑うしかありません。苦笑
【調べなさい!】
入院4日目の日だったと思います。
「赤ちゃん、預かっておいてあげるから、産後ケアをしてもらえるところを調べなさい」
と助産師さんに命じられてナースステーションの横で一人、あちこちに電話をかけさせられたのです。
今、思えばそんなことしなくてもよかったのですが、そのときは、体力的にも精神的にも精一杯な状況だったので言われるがままに行動していたような気がします。
【退院】
めでたく苦痛の入院生活を終えて退院の日を迎えられました。
とはいえ、母乳の出が悪かったのか、生まれてから息子の体重ののびがあまりよくないといわれて、結局、翌日も体重フォローに行くことになりました。
翌日、体重フォローに行くと、
「あ、問題ないですねー」
と言われてその後は1ヶ月検診まで病院にお世話になることはありませんでした。
私の個人的な願いとしては助産師さんを始め、医療スタッフの方々にももう少し我々のように障がいのある母親のことを理解してもらい、医療スタッフだからこそできるきめ細かいサポートを提供してもらいたいとそんな風に思う今日この頃です。
初めての苦い入院生活。
今となってはよい思い出です。
が、これから出産するという方は私のような経験をしないために、事前にちゃんとコミュニケーションをとっておいた方がよいかもしれませんね。
key word 子育て 産婦人科 入院 視覚障がい おむつ
viwa 奈良里紗
2016年2月25日木曜日
弱視難聴の花嫁 こだわりのブーケ
こんにちは。viwaの奈良里紗です。
今回のテーマは、「ブーケ」です。
「ブーケ」と聞くとどのようなものを思い浮かべますか?
花嫁が持っている花束で、ブーケといえば、やっぱり、ブーケトスが印象的ではないでしょうか。
花嫁がトスしたブーケを受け取った人は次に結婚できる!
というジンクスがあるので、女性にとって楽しみな演出の一つですよね。
ドレスが決まると次に考えるのがどんなブーケにしようかな?ということです。
私の中の勝手なイメージで純白のウェディングドレスに真っ赤なバラのブーケ!というイメージがあったのですが、式場の方にイメージを伝えると、
「一般的には、ウェディングドレスには白いブーケなんですが・・・」
「えっ!そうなんですか?知らなかった・・・」
とはいえ、私たちは教会式の結婚式ではなく、人前式という宗教等が関係のない自由なスタイルのものだったので、
「でも、赤いバラのブーケが絶対ダメっていうわけではないですよね?」
と確認をとった上でやっぱり赤いバラのブーケにすることにしました。
なぜ、赤いバラのブーケにこだわったかというと、そう、コントラストの問題なんです。笑
先ほど、ご紹介したとおり、ウェディングプランナーさんいわく、純白のウェディングドレスには白いバラのブーケというのが一般的なんだそうです。
でも、これだと白→白なので写真をとったときにブーケの存在がわからないのです。(少なくとも私の目ではわからないだけで見える人にとっては全く問題ないのでしょうが・・・)
もちろん、白いバラのブーケといっても真っ白というわけではなく、緑をいれたり、ほかの色も加わるのですが、見えにくいには見えにくいのです。
友達の結婚式にいっても、ドレスは印象に残ってもどんなブーケを持っていたか覚えていないのは、きっと、白くて見えていなかったからなんだと思います。
なので、どうしても「赤」がよかったのです。
では、私が実際にどんなブーケにしたのかご紹介しますね。
☆ウェディングドレスに赤いブーケ☆みなさんは、ブーケ&ブートニアの儀式というのをご存知でしょうか?
もともとブーケというのは、男性がプロポーズをするときに花束を持ってしたことに由縁しています。
ブートニアというのは、プロポーズされた女性が「Yes」の返事をするのに言葉ではなく、もらった花束から一輪の花をとって男性の胸ポケットにさすことで伝えたという意味があるそうです。
私は列席者の方にも「参加」してもらえる挙式にしたいと思い、ブーケ&ブートニアのセレモニーをすることにしました。
簡単にこのセレモニーを説明すると
1.列席者の方に一輪ずつバラを持っていてもらう
2.セレモニーがはじまると新郎がその花を一輪ずつ列席者から受け取る
3.全部受け取るとひとつの花束ができブーケとなる
4.新郎はこれをもって新婦にプロポーズ
5.新婦はブーケを受け取り、その中から一輪の花をとって新郎のポケットにさす
これで一連のセレモニーが終了となります。
ブーケは結構持ったりおいたりする場面が当日たくさんありました。
もちろん、介添え人の方が手際よくブーケを持っていてくれたりするのですが、赤いバラのブーケにしたおかげで自分でもどこにブーケがあるかよく見えてよかったです。笑
☆ブーケトス☆
この赤いバラのブーケ、生花20本程度の花束だったと思うのですが、意外に重たいのです。
笑顔でブーケを持っている花嫁さん、実はこんなにずっしりと重たいものだったのですね・・・と当日ビックリしてしまいました。
そして、こんなに重たいブーケをトスなんて・・・。できません。
私自身、友人の結婚式にいってもブーケトスはどこから飛んでくるのかわからないので怖くて参加したことがありませんでした。
今回は私がトスするわけです。
自分の手から離れて誰の手にわたったのかわからないのはつまらない!と思い、トスではなくくじ引き方式にしました。これをブーケプルズというらしいです。
ブーケに何十本ものリボンをつけて「せーの」でひっぱります。
1本だけブーケにつながったリボンがあるというセレモニーです。
当日、ブーケを引き当てたのは、未婚女性の中に唯一いた全盲の女性でした。
たまたま、全盲の女性にあたったのですが、きっとトスしていたら彼女ではない人にわたっていたのだろうなぁと思うとやっぱりやり方って大事!と思いました。
☆手作りのブーケ☆
私は一生に一度の結婚式なので、自分なりに「感謝」を伝える式にしたいと思って準備をしていました。
私は高校2年生のときに弱視となったわけですが、弱視になるまでと変わらぬ高校生活を続けて、かつ、とても楽しい高校生活を過ごすことができたのは友達の存在が一番大きかったなぁと思います。
なので、カラードレスにあわせるブーケは式場がつくってくれるゴージャスなブーケではなく、友達と一緒に作りたい!と思い、手作りブーケを作りました。
インターネットで検索すると手作りブーケのキットが結構販売されているのでそこから選んで購入しました。
ブーケはドレスの色にあう色を選ぶ必要があったり、形も色々とあるので、そのあたりはプランナーさんにも相談しながら進めていきました。
そして、友達と集まってブーケ作り。
結構、細かい作業があり私がというよりかは友達たちがほとんど作ってくれました。笑
あれこれおしゃべりしながら作ったブーケ。とても楽しかったです。
この手作りブーケは、一緒に手作りをしてくれた友達に当日サプライズプレゼントしました。
その子はなんと本当に次に結婚したのでよかったです♪
☆二次会のブーケ☆
とても現実的なお話になりますが・・・
式場で作ってもらう生花のブーケは結構値がはります。
挙式・お色直し・二次会と全て生花のブーケをお願いするとそれだけで10万円以上です。
でも、二次会でもブーケトスしたい!
いや、二次会こそブーケトスしなくては!
という思いから二次会でもブーケをもつことにしました。
でも、予算をおさえたいということで、インターネットの出番です!
二次会のブーケは大阪から朝発送してもらい、夕方受け取る形で作ってもらいました。
使うお花の種類もブーケの形も丁寧にオーダーメイド!
インターネット上で画像を確認するので当日までどんなブーケが届くのかドキドキだったのと、本当にちゃんと大阪から届くのかも心配でしたが問題なしでした!
二次会なのでちょっと値段を抑えたブーケにしたということもあり、挙式でもったブーケよりずっと軽くてこれならトスできる!という感じでした。笑
☆花冠☆
ブーケとは少し違うのですが、同じお花を使うもので花冠があります。
ウェディングドレス=ティアラというイメージも強いのではないでしょうか。
私の中では、ウェディングドレス=花冠だったのでこれもインターネットでたくさん調べました。
すると、花冠だけをオーダーメイドで作っている職人さんのページを発見。
やりとりは全てメールでするのですが、作成した花冠の写真がきて、それをみてここをこうなおしてほしいなど細かいお直しまでしてもらえました。
さすがに、生花だと崩れてしまう心配があったため、花冠はプリザーブドフラワーを使いました。
こちらも画像での確認だけだったので実際に出来上がった花冠を見て、ドレスにあわせるまでは大丈夫かとても心配でした。
全て式場に任せてやったほうがたぶん失敗はせずにすむでしょう。
でも、私は自分で「作る」とか「選ぶ」ということが好きということもありましたし、自分がやりたいと思ったことを実現するために限られた予算の中でできる方法を模索していたら、結局式場に作っていただいたブーケは挙式のときのブーケだけになってしまいました。
それぞれこだわりたいポイントも違えば、事情も違うと思いますので何より自分たちが楽しい、そして、終わったときに満足できるように準備することが大切なのかな?と思います。
この他にも結婚式では、新郎新婦のテーブル、列席者のテーブル、親への花束などなど、お花が登場する場面がたくさんありました。
お花ひとつとってもこだわりだしたらとまらないと思いながら作った・選んだブーケたちでした。
花嫁の皆さん、その名のとおり「花」のあるお嫁さんになってくださいね。
key word 結婚式 ブーケ 手作り オーダーメイド ブーケトス
viwa 奈良里紗
2015年8月30日日曜日
見えにくい私の子育て 妊娠せんにご注意あれ!
妊婦になった視覚障がい女性の皆様へ
あなたもこれからママになられるのですね。
そんなあなたに私が妊娠中にとても失敗したと思うことを一つご紹介します。
それは、妊娠せんケアです。
妊婦さんになると、あちこちでこの「妊娠せんケア」という言葉を耳にするようになるかと思います。